書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 小説を書く面白さについて

ゲームっていうのは勝てれば面白いものだ。聞いた限り全く面白く感じられないゲームでも、プレイヤーにカタルシスを与える事ができればそれには価値があるという事なのだろう。
娯楽小説は、読者に何らかの快楽を与える物である。まるで自分の分身のように感じられるキャラクターが勝利を手にするのは実にわかりやすい満足感を実現させる。
バッドエンドの娯楽小説とは何だろう。それは人生の複雑さを表現したのかもしれない。だが、誰が見てもハッピーエンドの小説は、実のところ、他に面白いところを見つけられなかったから、ハッピーエンドにせざるをえなかったのかもしれない。すべてが終わった後で、読者が得る教訓は、後味が苦い程にありがたく感じるものかもしれない。
バッドエンドだろうとグッドエンドだろうと、読者はラストにテーマを感じ取る。勝利した主人公。かたや、破れて何もかも失った主人公。勝者は何もかもを手に入れるが、敗者はすべてを失う。だが、ラストシーンで失われなかった物が一つだけ残されていれば、読者はそこに人生を見る。敗者に残された物は何か? プライドだけは守り通したのかもしれない。恋人だけが寄り添うのかもしれない。あるいは、命が残っていればはい上がれるものなのかもしれない。

また、勝利を得るために失うものは本当に何も無かっただろうか? 時間や機会、あるいは……?
お前の書く小説は、読者にとってどのような価値がある? 自分が何を与えられるのかを学べ。だが、今日の本題では無い。

 

俺が今日話すのは、作者が感じるカタルシスについてだ。
お前は「作者が感動できない小説に、読者は感動しない」とか、そういう話を聞いた事があるだろう? 俺も言った事がある気がする。
では、作者はどこで感動する物だろう? お前は自分が書いた小説で感動する事はあるか?

俺の場合、小説執筆中における感動の瞬間は、大きく三つに分けられる。
一つ目は、日常生活の中で、小説に使えそうな種を見つけた瞬間。
二つ目は、プロットを組んでいる最中に、物語としてまとまった瞬間。
三つ目は、プロットから物語として形にしていく最中、新たな物語が生まれた瞬間だ。

むろん、これ以外に感動しない訳じゃない事は分かっているとは、思う。たとえば、うまい言い回しを思い浮かんだ時とか、技術力が上がったなと思ったら感動したりする。
一番身近な執筆者として、俺のたとえを出したが、お前はこれを参考にするに留め、自分の価値観に基づき、自分の感動を自分の言葉で見つけなければならない。

 

また少し話がそれるが、執筆プロセスにおいて、まずは何を書くかを定めなければならない。コンセプトやテーマ、主人公の事でも構いはしないが、俺は今感動について話している。
お前が感じた感動を、読者は同じようには感じない。読者が二人居て、同じシーンを語っているようで、実際のところ、違う感動の仕方をしている。作者が仕掛けた感動させる技に、大抵の読者は気付かない。いいや、読者の技術不足なんかに嘆いていない。ただ、同じ物を見て同じように感じる人間なんていない。それを読者に求めるな。
つまり、お前が感動を伝えたいと考えたなら、それを伝わるように工夫しないといけない。だが、それを話すのは今日じゃない。

 

話を戻す。俺は読者が感じる面白さではなく、執筆者が感じる面白さについて話している。結局は同じ物とする事はできるし、分けて考える事もできるという事だ。
お前が物語を完成させたとする。もう一度通して読んでみた時お前が感じる面白さは、読者とは違った面白さだ。二度目の熟読に近い形で、お前は自分の小説の面白さと向き合う。お前は何を読者に伝えたい? お前の物語を読んだ読者は、どこで面白いと言うのか、想像もつかないか?

 

作者が感動するなら、読者も感動する。なるほど。
では、作者が面白ければ、読者も面白い? これはどうだろう。
作者が面白いと思っているのに、読者には何一つ伝わらないというのは最悪だ。読者はその作品がつまらないと言うだけでは飽きたらず、作者の尊厳まで傷つけに行きかねない。なぜなら、人間は自分が理解できない物を排除しようとするものだから。キャラクターの一人に反感を覚えるのはいい。だが、全部が全部何を言っているのか分からないなら、批判が作者に行くのも、理解しておいて欲しい。
また、いわゆるビジネス書などである、伝わる技術をそのまま小説に流用するのも、いただけない。なぜなら、読者は物語に没頭したいと考えているからだ。せっかく物語に入り込んでいたのに、作者が出てきて話し始める。あるいは、キャラクターから糸が上に伸びていて、操り人形のように見えてしまっては、その物語は滑稽だ。一応言っておくが、小説を書くのにビジネス書が役に立たないとも、物語に作者が出てきてはいけないとは、言っていない。

 

例外はある。だが、やはり、作者が面白く思う小説は、読者も面白い。
いいか、作者が「技術は無いけれど、がんばってかきました」って小説は、大抵面白く無い。
お前の小説を書く技術がつたない物だとしたら、お前は「物語を面白く書かなければならない」
なんともナンセンスなアドバイスじゃないか。もし、お前が小説を書く事が面白いと思っているなら、俺が何を言うまでもなく、既に小説を書いているはずだ。よって、俺が言いたいのはそうではない。
お前は小説を書く中で楽しみを見つけなければならない。それは、お前が小説を書こうと思ったきっかけとはまた別の話だ。ゲームのたとえを思い出してみろ。おそらく、一番の楽しみは、お前が書いた小説を誰かに読んでもらって、面白いと思ってもらう事だ。だが、サシの真剣勝負で勝利を勝ち取る事の難しさをお前は知っているか?

 

ゲームを具体的に将棋とでもしてみようか。まあ、何でもいい。お前が興味を持ったゲームに置き換えて話を理解してくれ。
将棋は王将を取った方が勝ちなので、終盤が最も重要なゲームだ。最低でも三手詰めくらいパッと見えるようにならないと、泥沼の試合になる。それは、いつまでもオチが付かない漫才を見ているかのように辛い。
将棋は、実力が拮抗しているなら、有利な状態で終盤戦に入った方がほぼ勝ちのゲームだ。だから、中盤戦……同じ理由で序盤も大事になってくる。

 

将棋というゲームをまっとうに楽しみたいなら、満遍なくすべてを学び、特に勝つためには重要な終盤戦を学ぶ必要がある。だが、それは苦行のように時間はかかるし、自分よりうまいやつらはいくらでもいるし、何より、学びの途中、何も学んでいない奴に何度も負ける。
ちょっと勉強しても、それが表面だけの学びであるなら、実戦で生かされる事はほとんどない。相手が自分と同じ事を学んでいて、かつ自分より弱かった時に、やっと勝つ事ができる。
勉強した事は、忘れるくらい時間が経った後で役に立つ。しっかりと全部覚えている時より、ぼんやり、こうだったかな? と思い出すくらいの方がまだ役に立つ。
逆に勉強した瞬間というのは、自然な動きと、新たな動きの板挟みになり、かえってぎこちなくなり、弱くなってしまうものなのかもしれない。

 

あえてもう少し将棋の話をする。将棋には囲いという物があって、序盤は場合によってはノーリスクで王将の防御力を上げる事ができる。
俺は美濃囲いに組むのがとても好きで、その囲いを完成させるために将棋を指している。三手詰めはままならないが、美濃囲いの手筋だけは達者に知っている。たとえ負けても、美濃囲いに組んで戦えたなら、それなりに満足だ。だが、その頃の勝率は、美濃囲いに組めなかった時の方が高いくらいだった。
将棋で遊ぶのに、最も重要なのは終盤戦だ。だから、詰め将棋をたくさんやると、強くなれる。
だが、少なくとも俺にとって、将棋を遊ぶなら、勝つ事よりも得意戦法を先に身につける事をおすすめする。

小説においても、同じ事が言えるかもしれない。
面白い小説が書きたいなら、真っ先に学ぶ事は、俺が言う事とは別の事かもしれない。
だが、お前が書きあぐねいているのなら、お前が身につけるべきは「小説の書き方」ではなく「小説を楽しんで書くやり方」だ。
断言はできないのだが、お前がまずすべき事は、小説を完成させて、誰かに面白いと思ってもらう事より、お前が小説を書いていて楽しい瞬間を見つける事じゃないか?

 

お前は自分でプロットを組んでいて「これは」と思う瞬間はないか? 場面を一つ書いていて「この説明の入れ方はとてもクールだ」と感じた事はないか? あるいは最高に笑える会話文を生み出した時に、自分の面白さに気付くのかもしれない。
自分の得意な事を探せ。読者にとって最高の小説は無数に存在するが、お前の小説はお前にしか書けない。

 

手段が目的になってはいけないと、人は言う。だが、俺は美濃囲いに組むのが好きだ。そうでなければ俺は将棋を指し続けなかっただろう。そして、美濃囲いに組む為に、詰め将棋を学び、結局勝率は少し上がった。
同じ事が小説にだって言えるのではないか?
まあ、人生の大半はつまらない時間かもしれない。けれど一瞬で報われる事もある。常に面白い人生というのは考えるのも難しいかもしれないが、この一瞬に生きてるってところは想像しやすい。

 

今日もしゃべりすぎた。お前が書けなくなったら、また会おう。