書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 物語の距離感


どうやら、世の物事というのには共通の事実がある。
なるほど。俺は神様を信じている。他人や友人を信用するのと同じく……とりあえず、金を要求されるまでは居るって事にしておいていい。

 

遠近法の話をするからと言って、絵の話とは限らない。心理的にも遠近法という物が適用される。以前富士山かなにかでその話をしただろうか。
遠くにあると細部は見えなくなる。例えば、ペットでも飼ってみるかと思い立ったとする。動画なんかで可愛らしい動物を見て、うらやましく思う。実際動物というのはいいものだ。
しかし、実際に飼ってみると、思わぬ問題が出てくる。急な病気や税金とかならともかく、分かっていた事でもいざやってみようという段階で面倒くさくなり、後悔するなんて事は、人間として生きていればあたりまえの事。
当然、逆にいい事もたくさんあるだろう。しかし、近すぎると見えなくなる物もある。結局、猫は飼いたいけど飼えないのを我慢している時が一番かわいいのかもしれないし、自分の子供より孫の方がかわいく見えるもかもしれない。

 

富士山は遠くから眺めた方が綺麗だが、筑波山と同じくらいの大きさに見えてはやや、迫力に欠ける。一方筑波山にもよさがある。ロープウェイとケーブルカーがあり、気軽に楽しめる山であるのに、関東平野にぽつんとあるおかげで、頂上からの眺めはすばらしい。あるいは、富士山と名の付く山は日本にはたくさんあるのも、今日の話に相応しいかもしれない。それらの山は特定の角度から見ると富士山そっくりなのだ。
物には綺麗に見える距離や、方角、時間という物が存在している。

 

物語においても、同じ用な事が起こる。よいアイディアを思いついて、物語を書こうと思い立つが、思ったような物語が書ける事は、滅多に無い。たまにはあるのが、また厄介ではあるが。
現実と物語が全然違うように見えるのは、距離感があるからだ。
思うに、アニメの実写化だの、小説のアニメ化だのが失敗する要因のうち、少なくない割合が、距離感を見誤ったのではないかと思う。アニメが実写化した時、見たく無かった部分が、嫌と言うほど見えてしまう。あるいは、ずっしりした現実の重みが、軽蔑する程に薄っぺらく見えてしまったりする。

 

物語の語り手、特に小説で言うなら一人称と三人称の話をしよう。一人称の方が主観的であり、三人称の方が客観的である。もっと詳しく言えば、一人称とは物語に登場する人物が語り手の役を担い、三人称では物語に登場しない誰かが語り手をつとめる事になる。
どちらが優れているという事は無い。だが、初めて小説を書くならば、一人称の語り手から始めた方がよいと思う。一人称でやると何かと制約がつく。一度に複数の事が起こると……例えば戦闘シーン等では結構苦労する。語り手となる人物が気づかずに、読者にだけ教えるという事も難しい。確かに何度も視点を移動するなら、三人称でやった方がいい。だが、そもそも、小説を書くのに本当に大事なのは、何を書くかではなく、何を書かないかだと思う。

 

三人称の語り手には二種類あって、神のような存在である全知の語り手と、物語には登場しない特定のキャラクターを設定する場合がある。
このブログは「俺」という人物が語る事が多い。これは小説として書いた訳では無いので一概にその通りとは言えないが、どちらかと言えば前述後者の三人称的な技術が使われている。
また、二人称という選択肢もある。全てが二人称で書かれた小説というものも存在しているが、例外的と考えるべきだろう。だが、伝統的な小説でも、部分的に二人称が使われる事がある。このブログで俺がやっているのも、それだ。

 

さて、語り手について話したわけだが、その距離感を考えてみよう。先ほど俺に言及したから、それを話す。
社会人的なマナーとやらで考えれば、普通一人称は「私」であるとか「僕」にでもしておくべきかもしれない。
私が俺に変わる事で読者との距離感はどう変わるだろうか。同じ終止形「だ」「である」を使っていても、俺が言うのならやや口語体のような砕けた印象を与えるだろう。まあ、人から信用されたいなら、私でやるべきだ。俺はこのブログでは自分の主張が正しいとは言わない。
僕、という一人称なら、「です」「ます」という敬体で語られる事が多い。常態文よりかは柔らかな印象を与える。その分、何も考えずに使うとメリハリが無くなる。
まずは違いを認識する事だ。誰かに言われたからそうするのではなく、自分にぴったりあったやり方を探せ。

 

語るな見せろ、という言葉を聞いた事があるだろうか。
これはかつては映画脚本などで使われていた言葉だろうが、今では小説でも決して無視はできない。語りか、描写か、どちらが重要かという議論は、アリストテレスの時代からされてきた。
現実には本音と建前という物がある。社会生活を送る以上、本音をそのまま話す機会など、滅多に無いはずだ。
例えば、欲しくもないプレゼントを渡された反応は、その時の状況、誰に、誰が渡されるかによって変わるはずだ。
世話になった先生から送られるプレゼントは嬉しい。そう、言葉にしてみても、心からの言葉かは分からない。
しかし、二人からプレゼントをもらうとして、それをもらった時の反応は残酷な程に明らかだ。

 

わかりやすい言葉というのがもてはやされるようになってどれくらいになるだろう。小難しい言葉を使っても、頭がよさそうとすら思われなくなった。
文章っていうのはそもそも、適当に書いたって説得力が生まれてしまう物だ。難しい文章を読んで、なるほどって思うと、それだけで頭が良くなったように感じる。例えそれが間違っていても。間違っていて、それで恥をかいたもんだから、ちょっとは慎重になって、理解できる文章っていうのが求められるようになったのかもしれない。
分かりやすさとは何だろう。それは、理解するのが難しい抽象的な言葉を、より具体的な言葉にして説明しているのかもしれない。飛行機がなぜ飛ぶのかを説明するのに、野球ボールを使って説明するのも悪く無いやり方だ。
一方で、何でも分かりやすくすればよいという物ではない。何せ現実ってのは辛い物だから。でも、辛いってのと楽しいっていうのは表裏一体のものだ。

 

ビジネス書では、分かりやすいっていうのは重要な事だ。きっと、買ったはいいけれど理解できないって経験をした事があるのだろう。俺は、それはそれでいいと思う。何年か経って読み直してみると、思いの外理解できるようになっていたりするのだ。
分かりやすい物語は、ビジネス書程には需要がない。でも、アクション映画なんかは、分かりやすい物語が求められる。「凄腕の殺し屋の娘が誘拐された。主人公が関係者を全員殺す」なんて物語でも、役者がよければ百二十分くらいは楽しめる。

 

分かりにくい言葉っていうのは、苦い野菜みたいに栄養がある。飲み込むまでは大変だけれど、栄養は分かりやすい言葉よりも多く含まれている。
こんな言い方もできる。分かりにくい言葉を理解できるようになった分だけ、分かりにくい世界が分かるようになる。
俺も少しは人を騙すのがうまくなったんじゃないかと思う。ものは言いよう。言い方はいくらでもある。
例えば、そのうちAIが物語を書くようになるだろう、というのはどうだろう。
そんな時代は来ない。なぜなら、金にならないからだ。莫大な金をかければ、そういうAIも作れるかもしれない。けれど、AIが無限に物語を作れるようになれば、物語の価値は暴落し、研究費は取り返せなくなる。
まあ、立場を変えればまったく逆の事を言う事もできる。金という価値観はちょっと怪しい。今は最強の力を持っていて、何でもそれで解決できるような力を持っているが、そんな社会が百年後無くなっていても、何の不思議は無い。

 

さあて、距離感の話だったな。近づけたり遠ざけたりするだけでなく、立場を変えても、物事の見え方は変わる。
小説っていうのはすごく自由な物だ。どんな書き方をしたって許されるが、欲張るのはいけない。何か一つを選び、後は全部捨てなくちゃいけない。
小説を書くっていうのは信じるって事だ。書けるっていう確信が無くちゃ書き進められない。それを簡単に手に入れられる奴もいれば、そうでない奴もいる。
遠ざけたり、近づけたり、立場を変えたり……それだけじゃない。何に焦点を当てるかとか、いろいろ試してみて、これだ、というやり方を見つけろ。だが、はっきりと一つを選び、使えない物はちゃんと捨てなくちゃいけない。
地面を歩くのと、数百メートルの高さのビルの縁を歩く違いは何だろう。小説を書くのにも同じ事が言える。地面を歩くように文章を書かなくちゃいけない。
確信を持て。己自身を信じろ。物事の見方を変えろ。変わらない物を探せ。
時々、文章を書いていると、小説の神様にお伺いを立てるような気分になる事がある。こんな書き方でいいんでしょうかね、と。何かを信じなくちゃいけないなら、神様ってのはすごく都合がいい相手だ。今のところ金銭を要求された事は無いしな。

 

今日もしゃべりすぎた。また、書けなくなったら会おう。