書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 物語に驚きを求める

物語を読む時、たった一つだけ願い事が叶うなら、そこに驚きがあって欲しいと思う。
どんな時に人は驚くだろう? 自分が知らない世界があったり、思いもよらなかった事が起きたり、あるいは信じていた常識がそうではないって気づかされた時、人は驚く。
そういった驚きのある物語は、他の全てがダメでも、面白く感じたりする。

 

物語に限らず、何かを主張するからには、何かしらの驚きが含まれる物だ。
お前は俺が言う事に即座に反論するだろう。気持ちは分かる。驚きは驚きでも、背後から忍びより「わっ」とされて引き起こされる驚きが、人生の潤滑剤となる事はあっても、本質的な喜びや生きてる実感に直結するような事は無い。
つまり、俺が言っている驚きってのは、そういうのじゃなくて、もっと本質的に人生の素晴らしさを体感させる驚きなのだ。

 

ウケ狙いの発言というのは人間社会において最も悪名高い行いの一つだ。親戚の集まりに、ここらでちょいと場を賑わせてやろうとしたお前の発言に、一同は凍り付く。最初は訳も分からず戸惑っていた親戚の子供は泣き出すし、叔父が戦慄の表情で「おいおい、勘弁してくれ」ってため息をつくし、母親は真っ赤にした顔を手で覆って泣き出すし、父親だけが笑っているのも屈辱的だ。

あるいはニュースのタイトル等に使われる思わせぶりな表現に苛ついた事があるかもしれない。有名人の同姓同名、政治的な発言の切り抜きや曲解、猫が寝ころんだなどのタイトルに興味を持ち、騙されるんだろうなと思いつつ騙された経験が一度はあるんじゃないか?

安っぽい驚きがいけないんじゃない。五十円玉だと思って取り出したら百円だったら、そりゃまあ嬉しい。物語だって、取るに足らないと思っていた物語が、最後の一行でうっかり感動してしまう事もある。

 

相手を驚かすって事は、相手を出し抜く事って言えるかもしれない。驚かした方はしてやったり、という顔をついしてしまう物だから余計に腹が立つ。
まあ、そういう側面がある事は、俺は否定しない。けれど、それは怒らせたり泣かせたりという事でも同じだ。相手から何らかの感情を引き出すっていうのは、それなりのリスクが伴う。
ただし、笑わせるっていうのは、扱いが特殊で、基本的に笑ってる奴の方が上位に立つ。社会的優位に立つとでもいうのかな?
でも、読者を感情的にさせるのが物語の役目でもある。

 

よい驚きには、納得がある。
最後に衝撃の結末が、という売り文句の作品を読んだ事があれば即座に頷くかもしれない。「はあ?」って言いたくなる作品をできるだけあげてみろ、と言われれば結構な作品の数が上がるんじゃないか? 逆に好きな映画だけれど、ラストは思い出せないって作品もあるかもしれない。
一方で、それが驚きの威力でもある。良くも悪くも、印象に残りやすい。

誤解を恐れずに言えば、驚きを作り出すなんて事は簡単なのだ。常識的な人生。いつも通りの日常。それらから外れる出来事であれば、何らかの驚きがあると思っていい。
アイディアの話に限定して考えてもいい。物語の種には驚きはあるが、それだけでは小説は書けない。問題はどのように表現するか、という方だ。

 

捉え方はそれぞれだ、と前置きしておくが、大抵のアイディアはコンセプトにぶら下がる物だ。
警察が入って来られない建物にテロリストであるとか、突然なんらかの能力に目覚めるや、別世界に放り込まれるとか、男女の入れ替わりであるとか……アイディアを物語に適した形に昇華させた物がコンセプトである。

 

物語を表現するのはキャラクターの役割で、キャラクターとは、コンセプトを実現させるために存在している。
ただ可愛らしいだけのキャラクターでも「可愛い女の子」とかそういうコンセプトを体現する。「可愛いけれど腹黒い女の子」というのもあるかもしれない。
だが、物語においては、それらのコンセプトはそぐわない。以前、何度も同じ話をしているが、物語とは変化を表現する物だと考えているからだ。「可愛いけれど腹黒い女の子が、顔の美しさと引き替えに恋人を助ける羽目になったら」というコンセプトは物語として機能しやすい。

 

流れでテーマの話をする。テーマはキャラクターがコンセプトを体現する出来事を制限する。
実生活をそのまま描写しても、散文的になり、何を言いたいのかよく分からない話になってしまう。
「家族愛」というテーマで書いていたとする。夫の仕事で何らかのトラブルが生じて、決断を迫られる。その時「愛社精神道徳心か」で悩んでたら読者は混乱する。必ず「家族か他の何か」で悩まなければならない。
しかし、小説というのは特に自由な物だから、、テーマにそぐわない出来事が物語に深みを与えたりする事もある。絶対的なタブーではなさそうだ、と言う他無い。
けれど、物語に一貫性を与え説得力のある話にするのは、テーマの役割なので、学んで置いて損は無い。

 

物語を書きたければまず、コンセプトを学べ、と昨日までに何回か言ってきた。最初に言っておくが、驚き以外にもコンセプトになり得る要素はいくらでもある。
その上で、驚きのあるコンセプトから始めるべきだと言う。
商業用の小説入門では驚きのコンセプトの類型とかを教えてくれるのかもしれないが、俺は教えない。なぜならその手の情報が俺にとって役に立った事が無いからだ。
なぜ驚きのあるコンセプトから始めるべきか、という話をするが、一も二もなく印象に残りやすいという最高のメリットがあるからだ。

 

ネット小説などを見ていて、一番最悪な感想は「何を言っているのか分からない」だと思う。独りよがりで破綻している文章もあるが、もっと悲惨なのは、ちゃんと書かれているのに訳が分からない、という奴だ。
全てがそうであるとは言わないが、最初のシーンがぼんやりしすぎていて、次のシーンに移った時、まるで瞬間移動したみたいに混乱する事がある。一体今まで何をしていて、これから何をしようとしているんだ?
悪い例を批判するのはよしておこう。

 

例えば「衝動的に殺人を犯してしまった一般人」を書こうと思う。
第一シーンで主人公が死体を見下ろす。後悔とともに事故正当化をするように、こうなってしまった経緯をひとりごちる。首を絞めたが死ぬとは思わなかった。なんとも独りよがりな言い分ではあるが、コイツは被害者に金を借りていたらしい。
一服して、やっと人心地ついてから、死体を調べ、今更救急車を呼んでも遅そうだと結論付ける。
自首するべきだろうと考えるが、目撃者もどうやらいないし、隠し通せるだろうかと一応検討する。可能かもしれないが、踏ん切りがつかない。
迷っていると、突然、部屋の呼び鈴が鳴った。主人公は驚く。鍵は……締めていない。どうする? 咄嗟に死体を隠してしまった。
同時に入って来たのは……?

 

まあ、こんなところで区切ろう。
物語とは変化を表現する物だ。Aの常態からBの常態に移行したら、それは変化したと言っていいだろう。
しかし、往々にして、何を言っているのか分からない話は、Aの話をして、その後Bの話をするまでに、Aがどういう常態だったのか忘れてしまうのだ。
驚きのあるコンセプト、例えば「うっかり殺人を犯してしまった」というのは、物語としてありふれているのに印象に残る。実際に殺人経験がある奴はまれだと思うが、殺してやりたいって気持ちに共感できるだろう。そう思った事があると友人に話しても笑い話で済む。ありふれた話なのだ。だが、実際にやったら話は別だ。
先ほどの話では、うっかり殺人を犯した主人公が、つい死体を隠してしまったのだ。救いようが無い話だが、これもAからBへの移動だ。どのように変化したのかが理解できるはずだ。

 

別の話を考えてみよう。先ほどの話で呼び鈴が鳴ったシーンに戻る。主人公は慌てながらも死体に手をつけない。
呼び鈴を鳴らした相手を確かめ……信頼できる相手だ。驚かないでくれと言いつつ部屋に迎え入れる。
そいつに「ついさっき殺してしまって、今から自首する」と言うのだが、そいつは止める。そして、こう言う。「俺がバレないようにしてやろう。その代わり、協力しろ」

同じくAからBへの変化だ。インパクトのあるAが書ければ、次の変化も印象的に書く事ができる。また、いずれの場合もCを書くのは難しく無いのに注目して欲しい。

 

よいコンセプトがあれば、物語は一気に書き終わる。物語とは変化であり、変化するのには大抵何らかの感情が関わる事を知れ。それは驚きばかりではないが、印象に残るシーンを書きたいなら、驚きを学べ。おのずとそうで無いシーンも思い浮かぶ事だろう。

物語というのはたくさんの感情を引き起こす。
大抵の人間は、感情の受け手になる事が多いように思う。一方で、与え手になりたいと考えている者も多いのだろう。そういう時、驚きという感情を学ぶ事が役に立つ。だが、最初に話した通り、そこに危険性がある事は忘れるな。
悪い感情を引き出すのは実に簡単だ。面白い価値を台無しにする事は容易にできる。
物事に付加価値を与える事は難しい。人生の何気ない瞬間に光を当てる事は、比較的簡単にできる。それに意味を与えようと思うなら一工夫必要だ。
物語は、実体験の形でそれを体験させる事ができる。
住み心地の良い家や格好いい車の物語も、広告業者には必要だろう。
物語の良さは日常からの逸脱にあると言っていいかもしれない。物語で悩んでいるなら、まずは日常を探ってみるべきなのかもしれない。日常を学ぶとは、日常ではない物を学ぶのに等しい。

 

今日もしゃべりすぎた。書けなくなったらまた会おう。