書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 過程が大事


物語は過程が大事だ。そういうのが今日する話だが、それは作品を作り上げるためにどれだけ苦労したかが大事、という話ではない。作品の評価に関してはやはり、面白ければいいという、結果が全てだ。
物語を完成させる、特に満足のいく最初の作品であれば苦労するのは殆ど当然の事であるようだ。それは壁を越えるような話であり、越えられない時は絶望的だが、越えられそうだと感じた瞬間、壁は越えられている。

 

いつも俺が言っている言葉で説明するなら、物語とは変化を現す物だ。変化とは壁を越えて違う世界へ行く事、とも言えそうだ。AがCになった、というのが結果だとするなら、物語で重要なのはその過程であるBになる。具体的な話は後にする。

 

ところで、イメージトレーニングの有効性について、お前はどれくらい知っている? 筋力トレーニングの際に、イメージトレーニングをする事によって、結果に有意な差が見られる、という実験結果がある。有名な実験で、筋力を動かさないトレーニングが筋力増強に繋がるという面白い話なので、調べてみてもいいだろう。
このイメージトレーニングにはコツがあって、これも、過程が大事になる。つまり、筋肉質になった理想的な自分を思い浮かべるよりも、重いバーベルをしっかり掴み持ち上げる等といった具体的イメージが有効になる。
それは何故か? それは、脳の働きをモニタリングすれば分かるかもしれない。実際に重いバーベルを持ち上げている時と、重いバーベルを持ち上げるイメージをしている時では、脳の同じ部分が活性化されるらしい。

 

実際には起きていない出来事でも、脳がそうであると認識したなら、それは当の本人からしてみれば現実にあった出来事と変わりは無い。それを他者と分かち合おうとすれば齟齬が生じてしまうが、自分の胸の内に秘めておく分には何ら問題は無い。読者はそれを承知して物語へと入っていく。
物語に求められているのは、そういった実体験に迫るような、それでいて現実は得難い経験なのだ。
良質な物語は現実を反映している。物語に深く没入するためには、物語の世界を信じる事が重要だからだ。「確かにそういう物だよな」って考えるのと「現実にはあり得ないけれど物語だからな」って考えて物語を読む違いについて考えてみろ。どちらが優れているかという話ではない。作用の違いについて知れ。

 

物語性の無いものについて考えてみるのも役に立つかもしれない。辞書についての物語はあっても、辞書は物語を語るものでは無いだろう。知識や法則性を記すのに物語はいらない。
ビジネス書なんかには、物語とそうで無いものの境目が頻繁に現れる。特に実体験について話す時、そこには物語がある。どういった時に物語が求められるだろうか。印象に残りやすいというのも効果の一つだ。だが、物語の持つ最大の特徴は臨場感だ。
失敗や危険を伝えるのにも物語は多用される。
日常の中で物語を見つけろ。無理に見つける事は無い。言ってしまえば全ての物に物語はあるし、物語を無くしてしまう事もできる。

 

俺はさっきから現実の話をしようとしているな。お前が書きたいのはどうにも堅苦しい現実の世界ではなく、自由で広大な物語の世界かもしれない。それに否、と言う事を俺はしない。
だが、もしそう考えていて、お前に物語が書けていないとしたら、現実から物語を始めろと言いたい。
しかし、とお前は言うかもしれない。ドラゴンも勇者も美少女も出てこない話が書けないなら、そもそも物語を書く動機が消失する、と。
まあ、聞いてくれ。最初からそういう理想世界を描こうとしても失敗してしまう。物語には誰も体験した事のないような世界だったり、驚きが求められたりする。物語を驚きから始めるべきだなんて、俺自身が言った事があるような気もする。
だが、大前提として、まず必要なのは共感なのだ。物語の敷居をまたぐ、という表現をしてもいい。読者が物語を、それが空想の世界であっても、実際に起きた出来事であると思わなければならない。キャラクターと読者を一体化させ、無意識に次に何が起こるか、何が起きて欲しいのかを考えさせなければならない。それが物語に没入するという事であり、それには過程が大事だ。

 

物語は変化を表現する物だが、変化を現すには三つの事を描く必要がある。変化する前と変化した後、そしてその真ん中だ。それぞれに過程がある。
キャラクターを書く上で、最も気にすべき事は、そのキャラクターに興味を持ってもらう事だ。人間は理解できる事を快く思うし、理解できない事を不快に思う。物語に絶対の決まり事は無いと一応言っておくが、まずは理解できるキャラクターを書くべきだろう。
理解できるキャラクターを書くに当たって、最も信頼できる情報は実体験だ。自分が理解できていない事を話して共感してもらう事は難しい。レトリックはそれを可能にするが、それが自在にできる奴は、そもそも書ける書けないで悩んでないだろう。
社会経験があんまりなくて、自信が無いって奴は、別の見方をしてもいいと思う。例えば脳の反応についてだ。すごい、とかうらやましいとか、可愛らしいとか、可愛そうであるとか。そういう自分の反応に注意を向けろ。
テレビや友人の話、小説なんかでもいい。自分自身から学べ。人生に物語を感じろ。(だが、小説を書こうとしている時に小説から学ぶべきじゃないと言っておきたい。アイディアを見つけるなら小説から離れたところから探せ)

 

商業作品において、キャラクターに興味を持ってもらう事こそ最も重要であると言う事もできそうだ。
読者に理解されるキャラクターを出すと、その先の展開に期待を持つ事ができる。キャラクターが出てきて、新しい展開に進む。その結果、どうなるのか予想できる事は重要だ。

 

先の展開が読めてしまう作品というのは最低だ。驚きが無いという事だから。しかし、予想外の展開が続く作品というのは、逆説的に先が予想できてしまう作品でもある。ただ、その予想がことごとく外れてしまうだけだ。
真にエンターテイメントを目指す作品は、読者が見たい物を、驚きと共に見せるべきだ。

 

単に驚きの展開を出されても、読者が他人事のように受け止めていては台無しだ。あらすじは面白いのに、実際に物語としては微妙だと感じた作品をいくつかあげられる奴もいるだろう。
大切なのは過程だ。キャラクターが成長する過程を読者が体感できれば、キャラクターが壁を突破した瞬間、読者もまた大きな驚きに包まれているはずだ。
物語のリアリティというのは、どれだけ読者が物語に没入できるか、という事である。

 

実体験というのは大いに役に立つ。問題はそれを語ってはいけない、という事だ。行動として見せるのがよい。
なぜ語ってはいけないのかと言えば、第一に野暮ったくて押しつけがましく、第二にそう説明されていても、読者はどうせ納得しない。
人間は誰しも自分だけは特別だと考える物だが、それこそ実に凡庸な考え方であり、そういうキャラクターの考えを行動で見せる事ができれば、大いに共感を得られる。

 

キャラクターの行動は常に意識していた方がいい。キャラクターには各シーンごとに欲求があり、それを妨げる敵が居て、どのように叶えようかという戦略があり、実際に起こす行動がある。
おもちゃを買って欲しい子供は、どうやってその欲求を叶えようとするだろうか。敵は親だ。「買って」と喚くが通じない。勉強するから、と言うが親は渋る。子供はハンガーストライキに乗り出すが、結果はどうなるだろう。実はその家族は事業に失敗し破産の危機にある情報が明らかになった時、子供はどのように変化するだろうか。
あるいは喧嘩して仲直りしたい恋人同士。しかし、相手の方が仲違いのきっかけを作ったと考えていて、相手の方から先に謝るようし向けたい。二人はどのような作戦を練り、どのように行動するだろうか? お前が先に謝れ、と言えばこじれるのは明確に思える。

 

心の機敏を表現する時、やはり自分が実際に経験した事以上に役に立つ物は無い。
では、恋人が居ない奴は恋愛モノを書けないだろうか? ましてや死に別れる話など無謀なのだろうか?
実際のところ、人間は理解しづらい物を理解しようとする時、何かに変換して考える事がある。
「私と仕事どちらが大事か?」という質問に答えるのは難しいし、正確な答えは求められていないだろう。しかし、仕事は月給に置き換えて考える事ができるし、彼女とは月何時間一緒に居られているかとか、将来どのくらい長く付き合う可能性があるのか計算する事もできる。

 

現実の女の子を本気で可愛いと思った事の無い奴でも、ペットの為なら死んでもいいなんて考えるやつも居るそうだ。そのペットにかける気持ちはそのまま流用できそうだ。
余談だが、とある歌詞で、死に別れた者への悲しみを歌った物があったが、ペットの犬に向けた歌詞だと聞いて驚いた事がある。
人生は物語だ。全ての出来事にはドラマがある。ただ、余計な物が多すぎるだけだ。

物語は壁を越える事であるとも言えそうだ。お前は何か壁を越えた経験はあるか?
そんなに難しい事じゃない。例えば、お前にとって世界の広さはどれくらいだ?
普段の生活圏が世界の広さだと感じるかもしれない。普段の通勤、通学路から先は未知の世界。ちょっとお出かけで二時間くらいの場所かもしれない。あるいは最も遠くまで旅行に行った場所かもしれない。
宇宙まで飛び出して、人類が最も遠くにたどり着いた月は四十万キロメートルくらい。太陽系で最も遠い場所にある惑星が海王星。宇宙はどこまでも続く。
お前の壁はどこにある? 壁というのはつまり、常識だ。物語というのは常識を覆すような出来事が起こる。
天動説と地動説の認識の変化がどのように起こったか、お前は知っているか? 天動説を信じる連中を説得できたわけじゃない。彼らがくたばったから認識が入れ替わったんだ。

 

自分を知れ。自分が信じる常識を知れ。それは壁だ。
壁を乗り越える話は美談として語られるが、壁というのは本来、自分を守ってくれるものだ。恐ろしいのは乗り越えられない事ではなく、誰かが乗り越えてくるんじゃないかってことや、自分が危険な外の世界に飛び出してしまうんじゃないかって事だ。
その恐ろしさはあってしかるものだ。恐ろしさをあると認めろ。敵を認識して初めて、戦う事ができる。
自分にとっては結果が全てだ。だが、物語を学ぶなら、壁を乗り越えるための過程も大事にしろ。きっと役に立つ。

今日も喋りすぎた。書けなくなったらまた会おう。