書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 3千文字書こう

 俺の場合、三千文字程で話をまとめるのが一番よいと感じる。どんなに絞り出してもその文字数に達していないなら内容が薄すぎる。逆に五千文字も書けてなおまとめられないなと感じたら、それは二つに区切って話すべきだと思う。
 最初の千文字はとりあえず指を踊らせるようにして書く。本題とはまるで関係ない話から始めたい。
 まずはご挨拶という訳だ。だいたいで読み飛ばしてもらって構わない。
 当たり前の事を当たり前に書く。とりあえず、なるほど、日本語が通じる相手だと信頼を持ってもらってから、次の本題に移るというわけだ。
 はたして、過去の俺がそんな事を考えて文章を書いていたかは疑問だ。だが、今はそう思っている。


 まとまった文章が書けるかどうかは書く前に決まっている。何を主題にするのかが大事になってくる。

 例えば1+1=2であるという主題はどうか。
 悪い例として持ち出したので、ひとまずこの主題では難しいと思ってもらいたい。
 1+1=2である事の証明などを書いていけば、まあ三千文字程度埋めるのは可能だ。
 しかし、それを読める文章にする事は難しい。なぜなら1+1=2というのは一般常識になっているからだ。

 1+1=2とは限らない、ではどうか。
 これはさっきよりはマシだ。一般常識からはずれるため、読者には答えが分からない。二進数なら1+1=10だし、1+1=田であるとか下らない答えが出てくるかもしれない。


 予想外って事はそれだけで価値がある。
 一方で、わざわざ話をするって事は何かしらの価値がある事が前提になっている。
 未知の知恵だったり、感情を揺さぶる驚きだったり、または、話が分かるといった安心を与えるものであったりする。
 読者に何を与えるのかはコンセプトが生みだし、テーマが定めて、キャラクターで表現される。

 俺に言わせれば、全ての物は三つに分ける事ができる。
 始めがあって、中があり、終わりにたどり着く。
 共感、葛藤、決着、そう呼んでもいいだろう。
 理解、反証、結論、まあ、何でもいい。いくらでも呼び方はある。
 三段階のどこにも手を抜く事はできない。それぞれに役割がある。

 お前は、物語をどこから考える?
 俺の場合、二番目だ。
 三千文字の文章なら、真ん中の千文字に何を書くかを優先して考える。
 最初の千文字は、ここにたどり着く為の布石だ。
 最初の千文字で共通認識を作る。理解や共感と言ったものを生みだし、次の千文字を始める。

 真ん中の千文字が決まれば、最初の千文字に書かなくてはならない事が決まる。
 順接か、逆接か。
 今回の文章は、順接だ。ありきたりな話で始めて、更に深い場所にたどり着こうという試みだ。
 二千文字書いてしまえば、最後の千文字を埋める選択肢はあまりない。物語で言えば、結ぶか、広げるかのどちらかしかないと思う。

 あらゆる物語は説得であると言うことができそうだ。
 例えば「テーマパークに今遊びに行きたい」という物語を考えてみよう。
 真ん中の千文字を考える。
 今なら安いとか、人が少ないとか、そういう理由がたくさんあれば、三千文字は書けそうだ。

 真ん中が決まれば最初が決まる。
 テーマパークに行くべき理由がたくさんあるなら、最初の千文字は、逆方向に引っ張るべきだろう。
「テーマパークに今遊びに行くべきではない」という話を千文字考える。

 ここまで来ればキャラクターも最低二人決まる。テーマパークに「行きたい」と思っているキャラクター。その逆のキャラクター。この二人は同一人物であってもいい。

 最後の千文字は、結ぶか広げるかによって決まる。
 どちらにせよ「オチ」がつくのがよい。
「行く」か「行かない」か。いや、経験上「全く違う別の選択肢」を考えるのがもっともいいやり方だ。
 ギリギリになって「会社に呼び出される」とか。

 もし、この三千文字で結ぶなら、テーマも決まる。
「人生はやるせない」というテーマを決めたなら、文章をわかりにくくする贅肉をそぎ落とす刀となる。

 更に物語を広げるなら、この話は三千文字のまとまり、と考える事もできる。
 つまり、次の三千文字と、最後の三千文字。
 さらに言えば、これらを一万文字のまとまりと考える事もできる。


 書き方はいくらでもあっていいと思う。
 今回は俺のやり方みたいに紹介したが、俺だって、いつも真ん中から考えている訳じゃない。
 けど、関係ない話を最初にする事が多いのは文章を水増しする為だけじゃない。
 なんとも、小説の書き方なんて文章を書いていると、論理的になりすぎてしまう。
 もちろん、理論は必要だと思う。意識する、しないに関わらず、理解できる文章にはルールが存在する。
 だが、実際に書いてみると、思うようにはいかない物だ。
 車の運転中、ブレーキを踏んだら加速した、みたいな話が、小説執筆にはよくある。慌ててハンドルを操作してみたら、キレイに曲がれたなんて事もしょっちゅう。
 実の所、路面が凍結していたのかもしれないが、それは事故を起こさなかった事実と比べれば大した事じゃ無い。
 むろん、車を運転するなら路面凍結の危険性を十分に把握しておくべきだが、小説を書くならそうではないと言っている。
 実際に書けている事に比べたら、理論を知っている事は大した事では無い。
 ただ、書くことを見失ってしまったなら、理論は大いにその助けになる。
 真ん中の千文字を考えてみろ。


 自分が何を書いているのかを意識しておくべきだ。
 意識するべき事はいくらでもあるが、意識できる事は少ない。その事実を認めよう。
 しかし、一つを意識するという事は、その逆の事を意識するという事であり、結果として、たくさんの事を意識することになる。

 物語は説得であると言ってもいい。
 お前は何を語りたい?
 まずは最も語りたい千文字を考えてみろ。
 その千文字は、一般常識であるべきではない。
 正論を並べ立てれば、説得は簡単になるが、それは説教のように耳に心地よいとは限らない。

 まずは三千文字の文章を書けるようになろう。
 書けた文章が物足りないと感じた時、知識や技術が助けになる。
 ネットに書かれている知識は間違っている事もあるが、大抵は何かの役に立つ。
 けれども、役に立たせたいと思ったら、自分の言葉に直さなければならない。

 例えば「五感をフルに使って文章を書こう」と言った知識がある。
 人間の五感には偏りがあり、大きく視覚に頼っている事を知っている事にしてもいい。
 物語の場合は特に聴覚も特別な意味を持つ。登場人物の会話は、大体が聴覚を介するからだ。
 そこまで考えてみると、五感を使って書くという意識に違いが出てきそうだ。
 五感を使えとは、臭覚、味覚、触覚を多く使えという意味にとれるかもしれない。
 残りの二つに関しても、視覚に頼らず描写するとか、オノマトペを使うとか、そういう意識の仕方もある。

 また、俺が書いている文章が口語体になっている事を改めて意識してもいい。
 読者としては視覚を使って読んでいるわけだが、聴覚に働きかける作用があり、全体的に論理的に傾いていると思う。

 大切なのは、自分がどう考えたかだ。
 俺は自分の意見を相手に押しつけるつもりはない。分かっている奴なんてどこにもいない。
 共通認識というのはあっても、それは事実では無い。
 朝っぱらから瓶を煽り、頭はボサボサ、髭が伸びっぱなしの赤ら顔の男が居たとする。一目でアルコール依存症だと認識できるはずだ。だが、事実だとは限らない。

 自分に合ったやり方を探せ。
 最初のうち、それは誰かの真似かもしれない。
 しかし、誰かのやり方がそっくりそのまま自分に合う事は少ない。
 説明書を読まずに家電を動かすように、分からなくてもとりあえずやってみるやり方が有効だ。少なくとも小説を書いているなら。
 誰とも違う自分だけのやり方を見つけろ。
 まあ、しかし、それがうまく行っているなら、他のうまく行っているやつと、そっくりそのまま同じやり方だったって事も十分にあり得る。そういうものだ。

 今日もしゃべりすぎた。書けなくなったらまた会おう。

 

 

 ↓この本をオススメするわけじゃない。書いてる時に思い出しただけだ。うろ覚えのところが殆どだが、作者の政治的な主張が強くて何度も首をかしげた。