書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 作品のテーマには作者の魂がにじむ

 

コンセプトとテーマ


 コンセプトが素晴らしい作品は、ハイコンセプトな作品と評され、それだけで素晴らしい価値がある。
 それに対してテーマはないがしろにされがちだ。コンセプトとの違いが分からないという人も居るだろう。いらない、と断言するかもしれない。
 だがテーマはとても重要な物だ。
 それは物語に流れるBGMのような物で、いや、目にも耳にも感じない、もっと深くにある物で、通常は意識される事は無い。大抵は意識されないほうがいい
 テーマの扱いを誤ると、途端にコンセプトをぶちこわし何よりも注目されてしまう。
 感動的な場面で企業広告がデカデカと背後にあったり、キャラクターが現実の政治主張をするとしたらどうだろう。
 テーマによっては、まあ、許される事もある。
 そこまで極端な例でなくても、テーマを意識する事で、書くべきで無いシーンを見分ける事ができる。

 

 コンセプトには個性を求められる。
 コンセプトは面白さを作り出す核で、読者はコンセプトに注目し続ける事で現実を忘れて物語に没入する事ができる。
 一方で、テーマは普遍性を表現する
 コンセプトは面白い物語の世界を作り出すが、テーマは普遍的な意味を見出し、物語と現実を結びつける
 コンセプトが斬新なアイディアを物語に合う形で組み合わせた物であるのに対して、テーマはお前の魂を表現する
 テーマは力強い物だ。だから、物語の中で不用意に顔を出すと疎ましく感じるのだ。

 創作の中で、特に小説を書きたいって奴に限って、自分の中に主張したい物なんか何も無い、そんな奴が居るだろうか?
 無いと言うなら自分に聞いてみろ。
 例えば、親子の関係がどういう物であるべきだと思う?
 労働に対して賃金を払うのは親子の間でもそうするべきだろうか。親の庇護下にある内は言うことを聞くべきという主張は古いと思うか?
 子は親を越える物というのはどうだろう。それは単に親が衰えたからだろうか? それとも、親の教育により、子は親よりも優れた存在になると思うか?

 実際に主張に正解など無いのだ。あるいは、最適解というのはあるのかもしれない。
 誰もが何かを主張している。
 作家はそれを物語でやるのだ。
 物語を書こうと思い、面白いコンセプトを作りだし、キャラクターを生み出す。
 事件が起きてキャラクターが決断する。
 キャラクターがAでは無くBだと言った時点でテーマが発揮される。物語全体とテーマが同調した時、力強く物語が前進する。特にラストシーンでの決断は、テーマを象徴する出来事になる。
 お前の物語なのだから、好きにすればいい。
 しかし、最後に主張された物が物語にそぐわないものだったら、物語は一気に台無しになる。
 主張だけしたいならSNSで十分だ。


言葉にしない方が伝わる


 不祥事について考えてみよう。
 誰かが迷惑をかける。謝罪の言葉は素晴らしく、誠意ある物に感じたとする。
 だが、はたしてその言葉はどれくらいの効果があるだろうか。不祥事のマイナスをゼロに戻す事も難しいだろう。
 そもそも、謝罪はマイナスを確定させる物であって、もし謝罪する人がマイナスをゼロに、あわよくばプラスにしようと考えて発言したとすれば、大いに顰蹙を買う事だろう。
 謝罪者の意図は少しも考慮されない。人は考え抜かれた謝罪の言葉より咄嗟の暴言の方を真実の姿として捉える。

 意識して考えた事より、無意識の認識の方が優先される。
 初対面の人間の事を考えてみよう。
 お前は何気ない風を装っていても、目の前に現れた人間に対して「自分にとって敵か味方か」「どれほどの影響力があって、自分に対してどれくらいの影響があるか」などを常に意識している。
 無意識の判断に比べたら、意識の中で下される決断はほんの僅かにすぎない。
 物語においても、書かれている事よりも、書かれていない事の方がずっと多い。

 そして、何を無意識で済ませ、何を意識するかは人によって違う。
 創作の話だろ、で済ませる人もいれば、些細な行動が気になって仕方が無い人もいる。
 キャラクターの行動一つで物語の評価が大きく変わったりする。
 一瞬で、キャラクターの事がどうでもよくなってしまうし、逆も然りだ。
 理性的に考えれば実に下らない事かもしれない。しかし、読者を感動させたいなら物語に没入させなければならない。


敵対者について


 教訓主義的な物語を書いてはいけない。
 お前が考える一つの事実を元に、その事実を証明する事だけに物語を費やすのはよくない。

 魅力的な物語は敵対者も強力だ。
 敵対者は権力者であったり、実力者であったり、主人公より優れているように見えれば何でもいいが、その姿を決めるのはテーマだ。
「正義は勝つ」というテーマと、「権力は人を腐敗させる」というテーマでは、どちらも悪い王様が革命で処刑にされる物語だったとしても、多くの事が異なっている。
 正義は勝つというテーマを意識するなら、正義側は常に虐げられているべきだろう。正義を書こうとすればする程、テーマから遠ざかる。悪い王様は常に正義より強く、それが逆転する事でクライマックスを迎える。
 権力は人を腐敗させるというテーマで、同じキャラクターの話を書くと、何が変わるだろうか?
 例えば、力関係を考えてみよう。最初は悪が力を持ち、正義はそれに対抗しようとしているが、そのうち正義の方が強い力を持つ。
 テーマが「正義は勝つ」であればそこでクライマックス。「権力は人を腐敗させる」というテーマで書くなら、そこからが本番だ。正義を体現していた者たちが、今度は悪と見分けがつかなくなる。そういうどんでん返しのクライマックスにする事もできる。
「権力は人を腐敗させる」というテーマでは、敵対者は悪の存在では無い。
 力強いテーマ(テーゼと混同するが)には必ずアンチテーゼが存在する。例えば「優れた人物ならば堕落しない」だ。

 

 どんな物語にもテーマは存在している。
 だが、それはかなり生々しい現実、お前が信じる心の世界と強く結びついた物で、物語に没入している時にそれを目にすると「うわっ」てなるわけだ。
 読者がキャラクターで楽しんでる時、作者が出てくると大抵冷める。

 コンセプトは物語に飛翔させるのに必要な物だ。しかし、コンセプトだけで書かれた物語はなんとも浮ついていて、薄っぺらい。
 宝くじで百億円当てる事を前提にしたビジネスの話みたいだ。百億円当てる方法ならまだしも、その後のビジネスを考えてみたいか?
 対してテーマがしっかりした物語は、それだけで話として通用する。

 バケツにバッタを入れて蓋をする。バッタは最初、蓋に何度も体当たりをするが、そのうち蓋の高さまでは飛び上がらなくなる。蓋を外してもバッタはバケツより高くは飛ばない。

 レトリックの用語で言うところのアレゴリーというやつだ。
 物語には人を動かす力がある。テーマはその力の源なのだ。

 

 今日もしゃべりすぎた。書けなくなったらまた会おう。

 

 ↓物語を作り出すツールを紹介してくれる。二人の筆者がそれぞれ創作に役立つ思考方法を提示し、もう一人がコメントを残すというやり方はユニーク。一つのやり方に拘らず色々試すのがいいと思う。