書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 物語の可変域

お前は論理パズルを知っているか? しらなければそれでいい。論理パズルでは、真でなければ偽。というルールがある。とりあえず、俺が知ってる奴はそうだった。
現実は複雑なので、たぶん、そのように表現する事そのものがナンセンスであると思う。
お前が語り手になりたいのなら、偽を語ってはいけない。だが、真なる言葉はとても奥ゆかしいので、可変域がとても広い。お前が小説を書けないでいる理由は、真実を語る方法を一つしか知らないから、かもしれない。
語彙をどれだけ学んでも、多くの表現方法を学んでも、それだけでは小説を書けるようにならないかもしれない。けれど、それは役に立つ。

 

彼は笑った。小説にそう書いてあればお前は疑わないだろう。お前はまず信じようとして、それができなかった時、あるいは違和感を覚えた時、それを疑う。
二本足で立つ魚がお辞儀をした。お前はこう言われた時、現実の事を話しているのでは無いなと考えるだろう。だが、お前の頭には実際、二本足の生えた魚が頭を下げる光景が浮かんでいるのではないか? お前の頭は言葉を認識した瞬間理解しようとする。言葉を理解した結果、それがどういう話なのか判断する。それは一部界隈ではシステム1と2とか呼ばれてる奴がどうこうしているからだが、今は本題ではない。

 

彼は笑った。それは間違い無いのかもしれない。だが、正確な描写とは言えない。
鼻で笑った、であるとか大笑いした、とか微笑んだとか、色々ある。それ自体を変化させたとして、物語の何かが変わる事は無いかもしれない。
だが物事全てには理由がある。お前が理由など無いと言ってもダメだ。読者はお前も気付かないそれを見つける。お前が小説の中に出てくるキャラクター全員を笑わせたとして、全部、笑った、の一文で統一する事もできる。結果は、技巧にもよるが、読者は全員がそっくりそのまま同じ笑みを浮かべるのを、想像する。お前はそんなつもりは無かったと言うかもしれない。けれど、気付いた読者は何か理由を求める。それが分からなければ「手抜き」とか「作者は何も考えていない」とか、適当に言う。それはそれで、いい。

 

一方で、最初皮肉な笑みを浮かべていたキャラクターが、次に大笑いをしていたら、読者がそれを認識していたら、そのキャラクターは最初と、次で、違う笑みを浮かべている。頭の中でぼんやりとしているかもしれないが、確かに違う笑みを浮かべる。
読者は何故だと考えるかもしれない。理由はしっかり理解できていて、納得するかもしれない。

お前が意識して、そういうふうに読者を操れるようになったら、お前は小説を書けるようになっている。

 

痛い、凄く痛い、もの凄く痛い……次は?
焼けた鉄に手を押し当てたみたいに痛い。もっと? 溶岩に手を突っ込んだみたいに痛い。更に? 溶岩を注射で手に流し込まれたみたいに痛い。
本当の事を言えば、俺は溶岩を手に注射された経験は無い。それに、人の痛覚には限界があり、感じたとして熱いだろうとの意見もある。だが、お前は想像する事ができる。実際に溶岩を注射されたとしたら、たぶん痛い。

 

俺が言いたいのは、実際に起きた物事は一つでも、その表現方法は可変であり、お前はそれを好きに操作する事ができるという話だ。
別にお前はそれを意識せず書き連ねてもいい。それでも面白い小説は書ける。だが、実際に起きた出来事が、実は可変であると知っていれば、お前は立ち止まってしまった場所の、さらにその先に行けるかもしれない。

 

何を大げさなとお前は思ったかもしれない。だが、それは違う。俺が言う更にその先とは、結構近所かもしれない。
俺が痛みの話を始めた時、お人好しのお前は顔をしかめたかもしれない。だが、実はそれは突き指の表現だとしたら? お前の友人がそれで「溶岩に指をつっこんだみたいに痛い!」と言ったとしたら、どう思う?
それが小説を書くトレーニングになるものと信じて、友人の気持ちになってみよう。なぜ、友人は突き指した痛みを、単に痛いで済ませなかったのか?
まあ、たぶん本当に痛かったのだろう。だが、単に痛いと言っては、お前はさほど痛みを共感してくれないと思ったのかもしれない。少し痛みを大盛りにしておこうと考えたのかもしれない。
あるいは、実際見事に突き指したけれど、お前を心配させないために、小粋なジョークとして誇張法を用いてはぐらかす事を思いついたのかもしれない。大げさな表現は、嘘ではないにしても真実でも無いので、実体を誤魔化すのにもよく用いられる。本当にヤバければそんな事を言ってる暇はないとお前は考えてもいい。

 

俺はそいつを友人と言ったが、それをお前が考えたキャラクターに置き換えてもいい。そういう話をしていたからだ。
お前がコンセプトについてよく学んでいるなら、お前は自分のキャラクターに何をさせたいか理解できているはずだ。だけれど、それをうまく表現できないで居るとしたら……いや、実際の所、お前が自由自在に表現できるとしたら、他に何に悩んでいるというのか。
表現方法は皆悩むものだ。分かってる奴なんかいない。正解なんて無い。ただ、より良い表現というものは、もしかしたらあるのかもしれない。それは主に自分自身と相談すべき物で、自分の中に読者を作るという物で、それが学ぶという事だ。

 

物語の可変域は、あらゆる所に存在する。
例えばお前のコンセプトだ。プロットと言ってみてもいい。
以前「普通の少年が大怪獣と戦う」というプロットを話した事があったか? とにかく、こいつの可変域について考えてみよう。いじくり方はたくさんある。
まず減らす方を考えてみよう。「少年と怪獣」
何の話だ? 「少年と怪獣の友情」
少年はどういう存在か? 「怪物好きの少年と怪獣の友情」
興味が無い? 「怪獣嫌いの少年と怪獣の友情」
怪獣はどんな存在か? 「怪獣嫌いの少年と凶暴な怪獣の友情」
たしかに興味がそそられるが、書ける気がしない。「怪獣嫌いの少年と優しい怪獣の友情」

 

プロットをどんどん長く、詳しくしていく事もできる。
平和な村に暮らす少年。父は怪獣と戦う仕事をしていたが、戦死した。なので少年は怪獣が大嫌いだ。
ある日、村を怪獣の群が襲った。少年は妹を逃がすために囮になり、逃げそびれてしまった。
死を覚悟していた少年だが、その行動を見ていた怪獣が少年の事をかばう。それは怪獣にとっても危険な行動で、その事が怪獣の仲間にバレたら、命の危険がある……。

 

コンセプトを学び続け、その文章量を増やし続ければ、それは小説になるだろうか? 多くの場合ならない。時系列を変えたりしてもダメだ。何故ならそれはとても不自然だからだ。
読者はそのプロットを見て関心してくれるかもしれない。だが、妹を庇う少年や、それを庇う怪獣を見ても、感動はできないと思う。そいつらの体の節々には糸が延びていて、その先に作者の姿が見え隠れしているのだから。

コメディをやるなら、キャラクターが操り人形に見えてもいい。いや、そう見えるならば、それは作者の技工でなければならない。

 

お前は物語が可変の物である事を学んだ。その作業が実りあるものである事は少ない。恐らくは大量の没の山を作り、最後は納得のいかない妥協で終わる事も、少なくない。それは、それで、いいのだ。誰かにとって完璧な物語は、誰かにとっては不完全なのだから。
一つだけコツを教える。うまく行かなかったら全部捨てて、全部書き直すか、次に行け。

 

うまく行く奴の内側には、よい読者がいる。よく学んだ奴には、よい読者がいる。お前はたくさん学んで、よい読者を育てなければならない。己の中に。
お前が壁に感じる苦しみは、お前の内側からちょっとでも外に出ようと考えている読者のせいかもしれない。
学びは外の世界からだけでは十分とはいえない。お前が取り込んだそれらを、使えるようにしなければならない。それが学ぶという事だ。

 

今日もしゃべりすぎた。またな。