書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 焦らしのテクニック

 読者を待たせる。


 何が楽しいと聞かれて「待ち時間だ」と答えるやつはまずいない。けれど、人生なんて大半は待ち時間なのだ。

  一生のうちで最高の瞬間とは何時の事か。
 努力して、努力して、努力して……
 例えば大きな大会で決定打となる得点を入れたり、生涯で最も栄誉ある賞を獲得したり、または、嫌いな上司に啖呵を切って退職し独立を決意した瞬間かもしれない。

 しかし、人生の大半は働いたり、寝たり、下らない事に時間を費やしたり……とにかく、人生においてはやりたくないのに、やらなくちゃならない事が長い行列を作ってる。やりたい事はその後だ。
 うんざりだな。でも、人生ってそういうもんだ。多大な労力を支払い、ほんのちょっぴり成果を得る。
 俺たちはそのほんのちょっぴりを手に入れる為に長い行列に並んでいる。

 楽しい時間について考えてみよう。


 楽しいといって、アミューズメントパークを思い浮かべる奴も居るだろう。そこに居る奴を想像して、ちょっと話を聞いてみろ。なんて答えるだろう?
 本当に楽しんでる奴なら、大抵いつでも楽しいと答えるだろう。一人で観覧車に乗るような例外の事は忘れろ。
 いいか。そこで楽しいと答える奴は、入場でチケットの料金を支払う時ですら楽しいと感じる。やっと支払う事ができたと感じるかもしれない。そして、堂々と入場するのだ。
 そこにたどり着くまでの車での会話。その前の朝食、前日の準備、チケット代を稼ぐための仕事、は言い過ぎか。
 とにかく、本当に楽しいのはアトラクションや、周りの空気などだ。楽しいことがその先に待っているなら、待ち時間も楽しい。

 

 夢中になれる事はいい事だが、それ自体がただただ楽しいなんて事があるだろうか
 ジェットコースター好きを想像してみて、いつが楽しいのか聞いてみろ。実際にコースターが動いている時は、それに夢中になっていて楽しい、だとか感じている暇は無い。
 怖いとか驚いたとか、そういう感情を覚えるかもしれない。緊張感があって、驚きがあって、爽快感がある。それを感じる時は「あぁ、ちょうど良い緊張感で、期待がそそられるな。そろそろ開放感と共にスペクタルが訪れるはずだ」などと考えはしない。
 しかし、制作者はそういった立場で物を見ている。

 

 大事なのはバランスだ。
 待たせすぎがうんざりさせる事は言うまでもない。異例の大行列に並ぶ羽目になったなら、この世に生まれた事を後悔するだろう。
 待ち時間が無かったらどうだろう。某ランドに入場後、即座にアトラクションを楽しめるとしたら。その日限定と言うわけでもなく、恒久的に。
 普段からランドを最高に楽しんでいる奴ほど、楽しむアトラクションの数は変わらないんじゃないかと思う。少しくらい増えるかもしれないが、それでそいつの幸福度が増すとは思えない。
 待ち時間がなくならないのは、大人気で客をさばききれないからではない。
 入場した瞬間に、客がコンベアにのせられ、次々にアトラクションを体験していくような施設が流行らないのは何故か。
 正確な答えを俺は持っていないが、常に楽しいアトラクションを体験させ続けるのは、コストパフォーマンスに見合わないだろう事は簡単に想像が付く
 それは、食べ放題で、健康に悪い物を吐き気がするまで食べ続けるようなものなのだから。
 製作者の立場で考えるなら、食べ放題で、原価の高い商品だけを並べるようなものだ。


 良質なエンターテイメントは、待ち時間を楽しませる。


 それが、努力を重ねて挑んだ試験や、全財産をかけて購入した宝くじ、次の連休など、人生にとって余りに大きすぎる出来事であれば、話は別だ。
 物語を楽しむのは、ちょっとした賭け事に近い
 全財産を賭けた大博打ではない。億万長者になった自分を想像して、ちょっくら百万円使って遊ぶ事を考えてみろ。
 かなり長生きな人間でも、寿命は百万時間程度。そのうちの一時間で物語を楽しむ。

 物語は人生の喜びそのものでは無いにしても、潤滑油として良質で新しくて、しかも理解しやすい物が常に欲しい。
 物語は大抵の場合すべて手作業で作られるから、人類史上見ない程物語があふれる現代でも、まだ供給が足りてない。

 

 お前が、人生を全部使っても書ききれない程のアイディアを抱えて吐き出したがっているのなら、話は別だ。さっさと書いて、一つでも多くの作品を作り上げるべきだ。
 実際は、素晴らしいコンセプト一つを作り上げるだけでも大変だ。その、最高の一瞬の為に、下らないシーンで水増しして、結局何を言いたいのかまるで伝わらない作品になってしまう。


 最高の一瞬は、すぐにはやってこない。
 ジェットコースターのような物語と評される作品であっても、実際はそうでは無いシーンがある。
 じりじりと緊張感がせり上がっていくシーンと、緊張感が解放され物語が一気に加速するシーンの二つだけで物語を作る事はできる。
 それが悪い作品というわけじゃないし、俺はむしろ好きな作品だが、書き手を選ぶだろう。そういう話なら例外だ
 読者を待たせてみよう。それは、戦略的にやらなければ、ボーカルが歌詞を忘れたライブみたいに居たたまれない事態を引き起こす事だろう。


 読者に期待させる。


 それは、まとまった物語を書くのに必須の技術だ。
 何故それをしないのだろうか。考えて見ればすぐに分かる。読者に期待してもらうっていうのは、見知らぬ人間の肩を叩いて「今から面白い事を言うから聞いてくれよ」って言うような物だからだ。
 さすがに期待してくれよ、と直接伝えるのはハードルを高くしすぎだ。
 いや、本当にそうだろうか? 実際のところ、世に溢れるエンターテイメントで、そう言った煽り文句はよく使われる
 くだらないテレビ番組が最後のCMを流す時、視聴率を下げないためにやる、アレを思い出して欲しい。
 この後、衝撃的な展開や、○○した結果がヤバすぎるみたいな。
 下らない番組ではそう言った技術が多く使われている。それを下らないと思うからにはうまく行っていないのだが、何故失敗したのか考えてみてもいいだろう。
 とにかく、こういう小技も読者に期待を持ってもらう技の一つだ

 

 読者が作品に期待する物の一つは、最後がどうなるか、である。これ以上なにも起きない地点が気になる……ただし、読者がキャラクターに共感し、物語の世界に没入させてからの話だが。
 物語の本当の終わりは、予想外の驚きと共に到達して欲しいが、読者の納得がいく、期待通りの結末であるべきだ(ハッピーエンドにしろって事ではない)。
 言ってしまえば、読者はラストがどうなるか、不安に思う事はあっても、それが楽しみで仕方がないって事は、あんまりない。ここまでは面白かったんだから最後で台無しにしてくれるなよってな調子で。
 ラストシーンに差し掛かった時点で、本当に良い部分は過ぎ去ってしまっているのだから。

 人間は論理的な考えを好む。論理的に正しい事が、実際は間違っている事なんていくらでもあるのに、疑問を投げかけられると、つい、答えを出したくなってしまう
 終わりが気になるのも、そういう脳のシステムから来る。
 答えが出る頃には、そもそも、何に期待していたのかすら思い出せない事が結構ある。
 そもそも、○○はCMの後、とか言われた時点で興味が無いと確信できる事もあったはずだ。分かっていながらも、ここまで見たからには、最後だけ見ないのは生理的に苛つく。

 

 物語の面白さは見えているものが全てでは無い。物語は複雑であるから、一つの短いシーンにでも、いくつかの狙いがあったりする。

 物語に対立があると興味を持たれやすいが、対立の解消を先延ばしする事でも、読者を待たせる事ができる。そういうのを意識しよう。

 そういうのをコツとかって呼んでもいい。
 そのコツを素早く読み取り、無意識に使えるようなやつもいる。長い時間かけてもコツがつかめず、まず何をやっていいのかも分からないやつもいる。
 いずれにせよ、やってる事は同じだ。得意不得意はある。個性と呼んでもいい。
 成果が欲しいなら、いつまで続くか分からない行列に並んでいるしかない。
 既に順番が回ってきた奴を見て羨むな、とは言えない。しかし、自分の順番が来るのを楽しみにするべきだ。どんなやつの人生も大半は待ち時間だと思うから。

 今日もしゃべりすぎた。書けなくなったらまた会おう。