書きたいけど書けないやつのための物語講座

俺はしゃべりすぎるから、全部読まなくていい。お前が書けると思ったら、すぐ読むのをやめて、書け

小説講座 対立について

恐怖の克服方、というのにも、個性が出るかもしれない。
中学生の頃、スキー実習みたいなのがあった。俺はその日初めてスキーを体験したが、ちょうど吹雪いていて、前が見えず、怖かったのを思い出す。そして俺は最後尾だった。滑るのは怖かったが、置いていかれるのはもっと怖かった。
スキーの講師に「怖いんだけど、どうすりゃいいの?」みたいな事を聞いた。講師は「はじめは皆怖いものだ」と言って続けた。「僕がここに勤めた頃、最初にやったのは、山の頂上から、スキーを縦にして全力で降りてくる事だった」
最初にスピードの恐怖に慣れてしまえば、後はなんとかなる、という事らしい。実に説得力のある話だが、次の日、俺がスキーを滑れるようになったかというと、そういう話ではない。

 

書けないってのはつらい物だ。だが、書けない時の対処方として、あるいは初心者の最も有効な練習とは、やはり書く事なのだ。
ところで俺は、小説を書くのをマラソンに似ている、なんて表現するのは嫌いだ。思うに、全然似てないと思う。一方で、共通する事項はある。
最初の一メートルを走れれば、一キロ走るなんて事はどうって事ない。十キロくらいは現実的かもしれない。一方で、先週は十キロ走ったのに、それ以降一キロも走らなかった、という事はあるかもしれない。
最初の一ページはすごく大変だ。最初の一ページがすらすらいければ、十ページくらい一気に進む(全て捨てる事になる方が、俺は多いが)。とにかく、一ページ目よりも十ページ目を書き終わった時の方が疲れているのは確かだが、一番エネルギーを使うのは一ページ目で、そこである程度助走をつけなければ十ページは書けない。

 

助走の付け方、というのは個性が出るかもしれない。
例えば、十分間くらい、とにかくアウトプットする、というやり方がある。
俺は手書きでやる。がむしゃらに書きまくる、というのにはまだアナログの方に分があると思う。真っ白な紙に乱雑なマインドマップを書き上げてもいいし、箇条書きにアイディアを出してもいいだろう。
間違えてもいい、というのがキモだ。書けない時っていうのは、とにかく駄文でもいいからたくさん書くべきなのだ。不安に思う時に何もしないでいると落ち込む時間が長くなるが、失敗した、という実績が、お前を立ち直らせる事もある。
それでも駄文しか書けない事はあるが、まあ何も書かなかったというよりマシだし、寝て起きて、おおらかな気持ちで読み直してみると、案外いい文章じゃないかって思う事もある。

 

物語であれば、どうしても小説を書かなくちゃいけない、って状況に放り込まれる事もあるかもしれない。けれど、現実の場合はそうじゃない。自分で立ち上がって、自分で歩か無くちゃいけない。
なぜそんな事が、こんなにも難しいのかと言えば、良くも悪くも安定した生活基盤があるからだ。

安定した常態を保とうとするのは、万物に共通する性質の一つだ。分子レベルの話でもそうだし、人間の頭の中だけに存在する概念でもそうだ。一つの見方があれば、必ず対立する立場がある。
物語においても安定と対立の考え方は実に役に立つ。だが、時々勘違いしている書き手がいるように思えてならない。対立が無い常態が安定だという考え方だ。それは違う。対立というのは常に存在していて、二つの対立が等しい力を保っている事が、安定している常態と言えるのだ。

 

家族の関係を見てみよう。妻と夫の関係はかなり分かりやすく、また複雑な対立構造がある。現実社会の男女の関係にまでは踏み込みたく無いから早めに済ませたいが、収入源がどちらにあるか、戦いになった時どちらが優れているか、という原始的な対立だけでは語る事ができない。女性にはどうしても、子供を産む時期にハンデがあったりするからだ。社会的分業という切り口もあるかもしれない。
親と子供、親と孫の関係を考えてもいいだろう。友人との関係も合わせて個人的な対立と呼んでもいい。どのように対立し、どのような形で安定しているだろうか。

 

家族を一つのまとまりであると考えた時には、更に別の対立が見えてくる。隣に住む別の家族や、職場との対立、あるいは国との関係はどうだろうか。
社会的な対立は、個人的な対立と比べて機械的だ。労働力と報酬の交換。違反と罰則。税金。義理と人情というのは、社会が個人に近い程力を持つ。

また、最も身近な他人とは自分自身である、という言い方もできそうだ。上司や顧客は説得できても、自分は説得できないなんて奴もいるかもしれない。
お前は、お前自身の弱点を認識していないかもしれない。だが、不安、不満、恐怖等は、ふとした拍子に滲み出し、お前に影響を与える。あるいは、怒りや喜びという感情が、お前に思いもよらない行動を取らせるかもしれない。

 

人はそれぞれ、生まれた環境に折り合いをつけて生きていく。安定した生活の中に、内的な、個人的な、社会的な対立がある。それらは通常均衡が取れているが、完全ではない。日常的に力加減は微妙に変化している。だが、平和な日常は、凪いだ海のように穏やかに見えるかもしれない。
だが、そこには目に見えない大きな力関係がある。子供の頃は簡単に打ち破る事ができた壁が、大人になる過程で分厚く塗り固められている……己自身の手によって。
壁は分厚さを増して、そこから抜け出す事は難しいように感じる。しかし、お前自身も子供のままではいられない。お前の持つ力も徐々に大きくなっているのだ。
子供の頃は、ふとした拍子に壁を抜けて外に出てしまうが、すぐに大人たちによって保護される。
大人はそうではない。分厚い壁を突破する程の力は、壁を壊しただけではとまらない。それが良い方向に向かうか、悪い方向に向かうかは誰にも分からない。

 

長々と話をしたが、当然物語の話だ。
現実を見るのが嫌だから物語を読んでいる奴もいるのかもしれない。だが、面白い物語というのは、いかにあり得なさそうな筋であっても、現実を反映している。
そもそも、現実ってのは思っているより面白い物だ。ただ、面白く無い事ばかり意識してしまう事が多いかもしれない。

少し実践的な話をしよう。書きたいことがあって小説を書き始めたのに、全然話にならない、という人が居るのかもしれない。強い思いは物語の種としては上出来だが、それだけではダメだ。先ほど話したように、対立概念が必要なのだ。
ゆえに、書きたく無い事に注目しよう。自分が見たくないと思うものと向き合え。何を嫌悪し、何に怒るのかを知れ。
なに、やってみるとトイレ掃除とかに似ている。汚いというイメージがあるだろうが、定期的に掃除して、いつも綺麗にしていればなんていう事は無い。とにかく実行してみること。あるがままを受け入れろ。

理性的に考えるのも必要だ。重大な事故ってのは、軽はずみな行動や、慣れによる怠慢によって引き起こされるものかもしれない。
一つずつ積み上げられた作戦によってしか、得られない物もある。

 

一方で、人を行動させるのはいつだって感情だって事を忘れるな。
やるべき事をやらない、ってのも行動だ。恐怖ってのは、本能的に「逃げ」の行動を促すためのものだと思う。怒りは戦うため。喜びは?

自分自身ですら、思い通りになると 思ったら大間違いだ。意識的に心臓を止められる奴はいない。脳味噌だってそうだ。皆が皆、やろうと思った事をやれるとしたら、人類はとっくに滅んでいると思う。

心臓は止められないが、運動によって速くする事はできるし、呼吸によってゆっくり落ち着かせる事もできる。
小説を書く助走の付け方も、実は、軽いストレッチがベストなやり方かもしれない。
生きている限り、どうしたって現実から逃れる事はできない。受け入れれば少しは楽になる。

 

状況が安定していれば安定している程、何かを新しく始めるのは難しい。とんでも無く悪い状況でも、良い状況でも安定している状況は、抜け出しづらい。
一方で、波乱に満ちていても、安寧に過ぎても、どっちにせよ、人は病む。バランスが大切だ。なんとも皮肉な話だ。状況を悪化させる事が、良い方向に歩き出す為の唯一の方法だった、なんて事もあり得る。

 

悪い状況でも笑えよ。高いところから飛び降りるのも、沈んでるところから浮き上がるのも、それほどエネルギーに違いは無い。どちらにも勇気と行動が必要だ。行動しなくちゃ、金があっても、時間があっても、結局何もできない。

今日もしゃべりすぎた。また、書けなくなったら会おう。